努力というのは、成果という目的のための手段のひとつに過ぎないと思うんですね。
成果のためにはもちろん努力も必要ですが、努力以外の手段も必要なわけです。
たとえばカンニングするとか、テキストや画像をコピペするとか。優秀なエンジニアを横取りするとか。おめーパクってんじゃねーぞと訴えるとか。既存のシステムにフリーライドして勝手にコメントつけるとか。
・・・まあそれらは極端なキワドイ例ですが。
たとえば
特許とかパテントを登録するときに、検索に引っかかりにくくするために逆SEOみたいなことをして言葉巧みに登録するんだそうです。そうしておけば、あとで類似技術を使って商売始めた人に対してサブマリン特許ということで持ち出して来て賠償金をタカることができますからね。
成果を得る目的のために使うことが許可されている手段が「努力」しかない国と、ありとあらゆる手段を認めている国。どちらが強いですかね。だからこんなに残業時間が長いんですかね。いっぱい残業してるといっぱい努力してる感じがしますもんね。いったい何と戦っているんでしょうね。
僕は目的を果たしたいのであって、手段なんか選んでられないんです。
押してダメなら引いてみな。ってね。
なんで努力→成果という因果関係しか、かたくなに認めようとしないんですかね。
「努力」自体が目的化してしまっているように見える。
なんかその「結論ありき」で、その結論を変えようとしない人、つまり原理主義者って多いですよねー。
「天動説が最強かと思ったらよく見たら地動説のほうが正しかった」
「ニュートン力学で全部説明できるかと思ったら相対性理論が出てきた」
「停電かと思ったら松崎しげるだった」
みたいに、現在の結論なんていずれ覆るかも知れないのにね。
近い価値観の記事があった
「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080111/1200020891
そりゃもちろん、理屈で割り切れない部分ってありますよ。にんげんだもの。それはいわば「クルマのハンドルの遊び部分」程度であれば問題ないと思います。毎年フジロックいって苗場山の中でスッポンポンになるとか。ステージでちんこ出して歌うとか。
でもね、ひとりの人間の人生とか、いち国家全体の思想を左右するような、いわば「クルマのハンドルを大きく切るような」重要な部分は、頭の中を整理して「これをやったら何が起きるか」をわかってないと大変なことになると思います。
猫を電子レンジに入れたらどうなるか。
ガソリンを小学校のプールに溜めたらどうなるか。
駆け込み乗車をしたりふざけたりして電車を遅らせたらどうなるか。
風が吹いたら桶屋が儲かるか
まあ、それでもハンドルの切り方を間違ったりもするんですけどね。
にんげんだもの。
「成功者に共通する50の考え方」が現実と違いすぎるので添削してみる。
http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/8990