人とか機械とか

デジタルガジェットやコンピュータについてのブログです。

歌に形はないけれど〜機械世紀の贖罪〜

ひろゆきは言った。
「CDいらなくね? データがあれば聞けるんだし、必要ならCDRに焼けばいいし、CDで買う必要なくない?」

所有感とか、盤面のプリントとか、ジャケットのデザインとか、特典とか。笑い男が紙の小説に価値を見出しているような感じ。だと思う。

例えば最近のスマートフォンやゲーム機にタッチパネルが普及しているが、画面を触るだけなのでフィードバックに欠けることが問題とされていて、最低でも視覚的にボタンを押したような画にするとか、さらに、例えばクリック音を鳴らすとかバイブレーションをするとか、なんらかのフィードバックを取るようになっている。

電気自動車はアイドリングが静かすぎて、歩行者がクルマの存在に気付かないことがある。実際に、交通整理のバイトをしていたとき、後ろから接近していたプリウスに気付かなかったことがある。このため、アイドリング音を常に鳴らすことが義務化される模様だ。

合理化してみたけど、ちょっと行き過ぎたので戻る。みたいな。三歩進んで二歩退さがる、みたいな感じ。

iPadの読書アプリは、まるで紙の本のページをめくるようなルック&フィールを備えている。

ドイツ(?)かどこかでは、白熱灯の製造が法律で禁止されてしまった。今後はLED電球しか製造されない。白熱灯にはファンが多くいて、あの柔らか味のある色合いはLEDでは出せないのだという。科学的にも、LEDと白熱電球とでは、出す光のスペクトラムが違うということは事実である。かくいう私の部屋も白熱電球の間接照明をタイマーで毎晩点けて、リラックスして睡眠導入効果を得ている。

いろんなものが合理的な機械へと最適化していくけど、最適化しきれない人間の性が、あるのだろうか。

秋葉原では、ニキシー管による時計キットが一定の人気を集めていたり、オーディオやギターにはまだ真空管アンプが使われている。

ライブ演奏が最高音質なのに、わざわざ標本化して劣化させた音を我々は普段聴いている。いくらサンプリング周波数を上げても、極限まで近づくことはできても、非連続が連続にたどり着くことはない。

perfumeはライブで口パクをしていることに心を悩ませていた。今は知らないけど。はやくリアルタイムのAutoTuneを開発しろよと思う。

Rayforceの Cybernetics Link Systemでも、全て神経接続されているのだから、本来は不要であるはずなんだけども、物理的なトリガーが実装されいてる。

デジタル化、機械化、効率化によって皮膚感覚は鈍っていくけど、皮膚感覚がなくなることはないんじゃないか。ゴーストが囁くのよ的な何かが。量子化できない何かが。たしかにスノーボードをやって転んで打撲してると、痛いんだけど、なんかそれはそれで充実感があったりもする。リストカットをする人というのは、生(せい)を感じるためだと聞く。


もうSFじゃなくて、現実問題の段階に来ていると思う。


ひろゆきには、そういった人間の感傷的な部分を感じる能力が無いなあと、つくづく思う。
ひろゆきにはセンチメンタルなんて感情は無い。