宗教も科学も、自然界や現実と戦闘するためのスタイルに過ぎない。
受け入れ難いとても悲しいことなんだけど現実的にそうするしかないことを、「自然と共存」で受け入れる方向で、せめて痛みを和らげるための古典的な手段が宗教なんだね。錯乱状態、前後不覚、精神的麻酔のような。
それを受け入れない方向でどうにかするのが科学なのかな。医療とか、遺伝子工学とか。
以前書いた「英雄」の話を解釈すると、
僕の世界、夢と祈りと不安でできてる。
http://d.hatena.ne.jp/sea-show/20110329/1301417677
「自然界」を英雄とすると、その自然界のシステムを脅かす科学はその英雄を殺そうとしてる人と言える。その英雄を殺して、新たな英雄になれるつもりなの?
という問いかけになる。
「原発」という英雄を倒してもいいけど、ではその英雄がいままで解決していた問題が出たり、倒していたほかの怪物が暴れだす。その責任がとれますか?
べつに自然というシステムを破壊してもいいとは思うんだよ。それと同等か、それ以上の「システム」を構築できるならね。
でも、それができないくせに、破壊だけしたり、事故ったりしてるのはダメだよねって話。取り返しの付かないことになるなんてもってのほか。
なんか、先進国の一般人って「大いなる勘違い」の上に成立してるんだね。っていうことに 気がついたというか、忘れてたというか。知らなかった。そういう人たちは(というか僕)、英雄がいない世界では生きられないんだよね。
たとえば宇宙空間で暮らそうとするのは、完全に人工のシステムなんだし、それで何年も住めてるけども。
人の暮らしが都市化して便利になり、家が駅から徒歩五分だとしても、
運動をせずに肉体的・精神的健康を維持できるほどには 義体化されていない時代ーー
じゃあ駅から離れてたほうがいいじゃん。って話。
「お前は見られている」が宗教、「見られていなくても」が道徳、「どう見ているか」が哲学、「見えているものは何か」が科学、「見えるようにする」のが数学、「もし見ることが出来たら」が文学。
2011-07-05 22:00:00 via web